2019年 10月 03日
官能的自己。厭世的カルマ
part1 『違和感、痛み、胃痛。』
最近いろいろな事を考える。考えてみるものの、どこか不完全である。全く、自分の頭には何もかもが難しい。これだ!と言う事を思いついても、同時に、だがしかし、という点が現れてくる。何かを捨てなければ、何も得られない。それは、ある意味では正しいのだろう。
人類は皆、障害者である。これはつまり、理想主義的な世界への到達は不可能だという事である。
理想はなぜあるか。不可能な事、あり得ないこと、それらの極地が理想である。理想とは、こうであったらいいなと言う事だ。それは、ある種の感情である。
頭が困惑してきた。そんな時はたまに叫んで見る。わーーーーーーーーーー!
正しさなんてないのだ。確かにあるが、無いのだ。僕はただ、僕であるだけなのだ。
人は成長する。これは、崩れ去ったものの、再構築である。それは、学習である。
可能性。
世界を作るのはあるルールと情動だけであって、経験ではない。場を作った瞬間に経験が確定する。つまり、経験自体は避けて通れない。経験から学習して、それを止め、新たなものを作る。
経験とは、僕らが物体、個体、一つの相対、である事の証だ。
経験の解釈は、僕らが世界を楽しむのを可能にしてくれる。
きっと、僕らが、経験の意味を、論理、感情、実存にあてはめて考えるとき、僕らは病んでいるのだと思う。僕が君と出会ったのは何故か?等々。
ここには多分、妄想の余地があるんじゃないかなと感じる。
正解。経験の正解。つまり、正確な言語的表現は、君と出会ったのは、〇〇を経験するためだよ。と言うことだろう。解釈。
解釈とはどのような世界なのだろうか。出来事とは何か。何が出来事と呼ばれるか。
Aという経験の、それが、Aである理由は何か。
経験とは、区切りの事だと思う。世界は、世界の論理は、
1 文字列
2 文字列
…
と、繋がっている。この間にあるのが経験ではないか。1と2を繋げる、接続詞的な役割が、すなわち、解釈だ。
世界は、刻一刻と終わり、新たな世界へと繋がっていく。
先程、経験の意味に妄想の余地が働くと言った。
僕にはそれが何なのか、まだ分からない。
運命。そう言ってしまったら終わりだ。
一方で、僕は運命という言葉を使ったことがある。経験、出会い。それはある意味で真理である。(つまり、すべての出会いが運命である。という事。)その頃の僕は少し未熟だった。
あぁ、また、思考が纏まらなくなる。
痛みは、人を強くする為にあるかどうか。単純に、痛みから学習するという事は、それを痛いと感じなくなるという事で、それは、人を強くするという事である。
固定された痛み、学習される痛み。
決して揺るぎないものは、おそらく本能なのだろう。
こうして考えてみると、なるほど、学習障害というのはすなわち、本能が"そこ"にあるのだなと分かる。例えば、怖いもの見たさで、真理を追求する人もいれば、それが自明でよく見える人もいる。逆に、学習障害でない。とは、つまり、本能が全くない状態である。
これは、すべてを学習していく。
医学の世界では、本能という考え方は否定されていて、めったに用いられないのだそう。
本能が全くない状態とは素晴らしいのかもしれない。
色々考えてみた。今日はこの辺にしておく。
感情を笑うものは、感情に泣く。
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part2『意味不明、支離滅裂、論理、乱雑さ。』
part1を書いて、見直してみて、自分が思った感想である。思ったことを関連させて書いているせいか、つながりがあまり良くわかりにくい。しかしそれらは論理であって、都合よく、乱雑に置かれている。全く、最悪な出来である。
多分、自明な事がわからないんだと思う。詳しくはよく分からないが、あまり良くない体調だ。
感受性、いわゆる、知覚力が強いと、行動を制限される。最近、特にそうなった。ある程度の妥当さを証明したいという心の現れか。普通。普通である。という事は、ゴールがある。と言う事ではないだろうか。
普通。
僕はとても普通の子供だった。
今でこそ、こんな長文の意味不明で、支離滅裂な事を書いているが。
だから、とっても普通に育った。
僕は、ある日、僕である事を極端に否定されるようになった。それは、とても悲しい事だった。それともー。
心当たりはあるが、言わない。僕の脳みそは多分、正常ではなくなってしまった。その代わり、変なことを考えるようになった。いや、昔からか。
何が出来事を、僕を、こんなに複雑にしているのか、全くわからない。
黙っていればかわいいという人がいる。多分僕は、その部類なのかもしれない。
僕は僕に変革を迫っている。すなわち、初期状態から変化する事。そして、それのみを好んでいるのかもしれない。
自分の生き方で生きればいいのだが、他人の生き方も借りる必要がある。
いざ、果てしない旅に出かけよう!
最近特に思うのは、僕は僕と、全く同じ考えをする(擬似的に)、とても整ったものを吸収しなければならないと言うことである。
でも、それって…?
今思いつく疑問、答えは、ほとんど不可能な位置にあるのかもしれない。
何事においても課題が詰まっている。
あぁ、絵が描きたい。
普通盲信教の人達は、自分が異常値であることに気づかない。普通は、そうであるから、このように振る舞うべきだ。これを肯定すべきだという行動がいくつもある。
かなりの気持ち悪さがある。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い
だからといって、義務に妥協したくはない。
あぁ、僕は特別なんだよ。分かってよmy Mum…
世界はとても複雑だ。というのもそれは、未来なのだけれど。
今、今、今。
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by L_H_universe1
| 2019-10-03 00:00
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